(旧)東ドイツ映画鑑賞雑感(2)

(私事ながら)寒中お見舞い申し上げます。

今年もよろしくお願いいたします。

さて、前年前月の続きからいきます。

(5)裸で狼の群のなかに

Nackt unter Wölfen

本国公開1963年 日本公開1964年

ナチの収容所を舞台にした作品ですが、収容者の大半は「政治犯」。ユダヤ人は主人公たちが結果的にかくまう子供しかいません(厳密にいえば子供を主人公たちに預けた男などドラマの中で通りすがり程度の存在としてはいます)。主要登場人物はいずれもドイツ人の政治犯です。実際の収容所(ヴッヘンヴァルト強制収容所)でロケを行ったということで、生々しさは感じられます。

主演者の多くが「政治犯」として収容所に拘束された経験があることは、ウィキペディアの出演者欄を押せば確認できます。彼らは左翼政治犯であり、戦後の東ドイツ社会においては結果的に「勝利者」であったわけです。

収容所内のナチの監視者たちは(この後の歴史を知っている上で書かれた作品だからでしょうか?)日和見主義者、保身者として描かれ、監視者としての恐怖を感じさせるような雰囲気がいまひとつありません。

ナチの収容所を扱った映画やテレビドラマは数多くあれど、ほとんどがユダヤ人の絶滅というシチュエーションになっています。こういう「政治犯」中心の物語は珍しいというか私としては初めてでした。

収容所内で政治犯たちがクーデターで自力解放という結末は、共産主義者がナチから解放されたという二重の「解放」を示しているわけです。

とにかく、珍しいものを観たなと思いました。

(6)引き裂かれた空

Der Geteilte himmel

本国公開1964年

東ドイツで暮らしていたカップルがいて、男の方が西に亡命してしまう…西ドイツ側からなら「脱出劇」として描かれがちなシチュエーションですが、そういうものではありませんでした。化学者である男は、西側の企業に認められて去っていきます。この映画の舞台は1961年らしいのですが、ベルリンの壁は画面上にまったく登場しません。時代は壁ができるギリギリ前のようですが…。

この映画は西ドイツでも公開されたようですが、東ドイツではプレミア上映直後に公開禁止になったようです。

先に申したようにスリリングな脱出劇はなく、当時の東ドイツの「生産性向上」「社会主義国家の理念」などが語られますが、当局としては公にしたくないはずの問題…主人公と同じ大学に通う女子大生が、家族が西側に亡命し迫害される姿が描かれたり…も盛り込まれています。

少々退屈を覚える作品ではありましたが、当局から禁止を言い渡されるぐらいですから、当時の共産主義国家の姿が、事実に近い形で残されているともいえるでしょう。

(7)僕は19歳だった

Ich war neunzehn

本国公開1968年

監督のコンラート・ヴォルフ は、東ドイツ映画界の巨匠でした(『引き裂かれた空』もこの人の監督作品です)。1925年にヘッヒンゲン で生まれたようですが、父親が左翼だったがために1933年にドイツを脱出しソ連に亡命、第二次大戦では赤軍(ソ連軍)に加わり、ドイツ軍と戦うという異色の経歴を持っているようです。

この作品は事実上彼の自叙伝とのこと。19歳で現場指揮官に任命され、ソ連軍人として占領下に置かれたドイツの住民と接し、さまざまな折衝を重ねる姿が描かれます。

ソ連制圧下、東部戦線のドイツの姿といえば、私自身「暴力とレイプの地獄絵図」という勝手な先入観がありましたが、これは戦後西ドイツの戦史家が描いた内容を鵜呑みにしていたこともあるのかもしれません。この映画で描かれるソ連軍はかなり良心的です。

また、負け戦にもかかわらず卑怯な手でいきなり現れるドイツ軍の姿は、まさにソ連の影響下の東ドイツで形成された旧ドイツ軍のイメージでもあったでしょう。

「蛮行を繰り返す冷酷な占領者」なのか、「良心的な占領者」だったのか…部隊や指揮官の質によっていろいろあったのだとは思いますが、後者の印象は、戦後にソ連が東ドイツに対して強制的に植え付けたイメージのように思うのですが、どうなのでしょうか?

今回の上映会のパンフレットに、この映画について気になる記述があります。

赤軍(ソ連軍)によるドイツ人女性への強姦を示唆する描写など、タブーとされてきた主題にも挑んだ。

具体的な描写は、まったくありません。ただ、物語の割と前半にソ連兵におびえるドイツの少女が描かれています。どうも強姦された後ではないか? とも思わせます。

ソ連軍による、ドイツ人避難民女性への大規模なレイプ…西側の戦史なら当然描かれ、ソ連そして共産主義への忌避感を煽るため西ドイツでは機能していた問題です。しかし、東ドイツでは「タブー」とされていて、おおっぴらには言えなかった出来事だったようです。

この映画を見るにつれ連鎖的に思い出すのは、日本と韓国の間にある「旧日本軍従軍慰安婦」についての認識のギャップです。日本では「自主的に募集に応じた約7万人のプロ売春婦たち」、韓国では「強制連行された約20万人の無垢の少女たち」、両国の割と一般的な認識は、ざっというとこんなところでしょうか?

もちろん、日本でも韓国でも、人それぞれ全部が全部同じ認識ではないでしょう。しかし、釜山の領事館前の像設置に対し、日本政府が今年の1月6日に発動した「駐韓大使の引き上げ(一時帰国)」などの一連の措置は、両国の言論空間を非常にやかましく、こだわりの強いものにさせています。

私も日本“側”の言論空間にいる以上、「この際だから思い知らせてやれ! 安倍さん今回は応援するぜ」という気持ちがあることは否定しません。「シツコイ奴らを今度ばかりは放置プレイで悩ませてやれ」とも思います。人間である以上、ウヨ的感情を否定しようにも、否定は無理だからです。

しかし、自分がもし韓国“側”の言論空間にいたとしたら、どうなるのだろう? とも思ったりもします。当然、与えられる情報も周囲の雰囲気もまったく別です。日本側の立場に配慮したようなことを言えば周囲に猛反発されるわけです。また、これまでに信じ込んだことを否定したくない気持ちも持つことでしょう。

かつての西ドイツと東ドイツでは、「ソ連軍の大規模レイプ」がまったく別のとらえ方をされ、それぞれの言論空間で別個のイメージとして存在していたようです。西ドイツでは「壁」の向こう側にいるソ連兵は脱走でもしない限り自分たちの女性をレイプなどできるはずもなく、在独米軍相手の売買春も公然の出来事として毎日行われているにもかかわらずです。逆に東ドイツでは駐留ソ連軍の兵士が、全部ではないにしろ性の暴走を続けていたケースもあったことでしょう。

それぞれの言論空間がまったく逆の認識を持ったのは、時代背景や政治的な部分が大きかったと思いますが、それぞれの立場で「そうであって欲しかった」からだとも思います。

よく「日本はドイツに学べ」とかいう人がいます。学ぶことは結構なことですし、ドイツ側が公表することにも、日本にとっても参考になる事例もあるとは思います。しかし、ドイツがあまり発信したがらない事実に案外、役に立つ事例もあるのではないでしょうか?

私の考えかもしれませんが、いま日本と韓国の人間が、一緒になってドイツから学ぶことは、旧西ドイツと旧東ドイツで真逆に信じ込まれてきた「旧ソ連軍からのドイツ人女性への大規模レイプ」に対するイメージかもしれません。

時代と政治的な背景が、それぞれの国民に対して与える異なるイメージ、そして、それぞれの国民がどうしても影響される現実…それは世界各国において案外よくあることなのかもしれません。

今回の韓国側の対応には、民心が抑えられない中央政府とポピュリズムを煽る野党政治家やマスコミの姿の醜さにうんざりします。またネット言論の世界でも不勉強な言動が飛び交っています。しかし、日本側にもどさくさ紛れの暴言やストレス発散の感情が思い切り乗った発言があることも否定はできません。先の自分の発言と矛盾しますが。

「慰安婦問題」を「ホロコースト」と結びつけるのは、ずっとナンセンスだと思ってきました。自分としてはまったく別物としか捉えていません。もちろん、旧西ドイツと旧東ドイツでの「ソ連軍大規模レイプへの認識の違い」だって「慰安婦問題」とはまったく別物ですし、旧西ドイツと旧東ドイツを日本と韓国に例えるのは反発される方も多いかと思います。

しかし「戦時性暴力」はナショナリズムともからみ、それぞれの立場で妄想と化し、それぞれの「信じたい内容」に変化していくことも確かでしょう。これは「共通点」かもしれません。

「ドイツに学べ」…これはドイツによる各種の和解プログラムよりも、もっと卑近な例に学ぶ方が有効かもしれません。いまこそ日韓双方の一般人が客観的なものさしで相手側の言論空間を想像することこそ、本当の和解への道筋なのかもしれません(などと言いながら、誰にも受け入れられないだろうな、この考え…笑)。脱線長文失礼しました。

(8)チンガッハグーク -大蛇と呼ばれた男-

Chingachgook, die große Schlange

本国公開1967年

DEFA製作の異色西部劇。統一ドイツになってからも活躍を続けているセルビア系男優 ゴイコ・ミティッチ  主演。主人公のインディアン(ネイティブ・アメリカン) が白人入植者(ここではイギリス人やフランス人など)によってさまざまな陰謀に遭うも切り抜け、最後は部族を超えたインディアン同士の結束を呼びかけるという話です。簡単に言えばインディアンたちは「万国の労働者」、白人が「資本家」というところでしょうか? 要は社会主義・共産主義的世界観を西部劇に置き換えたようなものと考えていいと思います。

でも、西ドイツ製の西部劇(ジャーマン・ウェスタン)とかあまり面白かった記憶がないのですが、設定が実に見慣れない分、何だか面白かったような。

今回は8本の視聴に留まりましたが、今回見逃した分もどこかで観る機会があれば、ぜひとも行ってみたいものです。

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(旧)東ドイツ映画鑑賞雑感(1)

個人的な事情により完全に過疎化させてしまった当ブログですが、久々に書かせていただきます。

 1129日(土)~1225(日)にかけて、東京国立近代美術館フィルムセンターにて上映されていた「DEFA70周年 知られざる東ドイツ映画」から7本の映画を鑑賞しました。その前の「NFC所蔵外国映画選集2016」でもDEFA作品があり、そのうちの1本も鑑賞。全部で8本観たのですが、どの作品も自分なりに、かなり面白く感じられたのは良かったです。雑感を書かせていただきます。

 (1)『罠 ブルーム事件

Affaire Blum 

本国公開1948年 日本公開1989

 1925-26年当時のヴァイマール時代のドイツで実際に起こった事件(マグデブルク司法スキャンダルMagdeburger Justizskandalを下敷きにした作品ですが、実によくできたサスペンス映画でした。

 虚言で共犯をでっちあげる犯人役のハンス・クリスティアン・ブレッヒの怪演が実に素晴らしく、思い込み刑事のエルンスト・ヴァルドフも実にいい味を出していました。トンデモない人物役が上手くないと映画は面白くありません。

この映画でもありますが、1925年ごろのドイツでは、左右両派の新聞がまったく逆のことを言いながら騒ぎ立てるという言論空間だったようですが、このあたりの雰囲気は現在にも大いに通じるものがあります。人の心は情報媒体が違っても変わらないというか…。

それにしても、「ユダヤ人を犯人にしたい」という願望がとんでもない方向に進み、必要のない捜査の手が伸び、あげくは投獄。こんなことが実際に起きたていたことにはビックリですが、自分がたまたまこの映画を観たのと同じ時期の日本で妙なことが起こりました。

某作家さんによる「大学生の集団暴行事件だが、在日外国人の可能性がある」とかいうツイートが出回り大騒ぎになりました。自分はサヨクのつもりはありませんし、この作家さん(作品読んだことありません)には恩も恨みもありませんがこれは「×」です。こういう個別の事件は、犯人の属性は結果的に出るものであって、勝手に「先行推測」しては危険です。もちろん、あの時点では在日外国人という可能性も完全に否定できたわけではないと思いますが、犯罪があった以上は犯人像を先に決め込むとこの映画のような事態になってしまいかねません。

余談になりますが、単独犯役のブレッヒや冤罪に遭う実業家ブルーム役のクルト・エアハルトは、データによるとこの作品が映像作品初出演。ブレッヒは後にハリウッドでも活躍。『バルジ大作戦』でパンツァーリートを一緒に歌う教育長役で有名です。また、エアハルトは48歳の映像初出演だったようですが、50代、60代はかなりの仕事量をこなせるようになったようで、この両演者にとっては俳優としての飛躍のきっかけになった作品でしょう。

 (2)『殺人者はわれわれの中にいる』

Die Mörder sind unter uns 

本国公開1946

 この作品はソ連の軍政下、ソ連映画人の協力で作られたDEFA映画の第一号ということで「東ドイツ映画」とされているようですが、映画が完成された時点では、まだドイツ民主共和国(東ドイツ)もドイツ連邦共和国(西ドイツ)も誕生していませんでした。

瓦礫のベルリンをセットではなくロケで見せることができたのはこの時期ならではの、ある種の奇跡でしょう。映像も綺麗で、主演のヒルデガルト・クネフは実に美しく撮られています。

いわゆる「告発もの」で、最後は悪党が化けの皮を剥がされる結末となります。これまた、たいへんよくできた映画だと思いました。ただ、『罠 ブルーム事件』のような爽快感がなかったのはなぜでしょうか?

旧東ドイツは旧西ドイツよりも「アンチファシスト」を前面に出した国づくりをしていたようです。しかし、多少なりとも東ドイツという国に興味を持った方は、かの国が「密告社会」であったことを知っています。東ドイツという国は結局崩壊することになりますが、その末期は密告や監視の歪(ひずみ)がすべて膿となっていたわけです。

告発される元指揮官は、「引き摺り下ろされる」対象としては絶好の存在として描かれます。ただ、スケープゴード的な要素も感じられ、そういうところが何か引っかかるというか…。その後の東ドイツという国のあり方を予見するような映画でもあったような。

監督のヴォルフガング・シュタウテは後に活動を西ドイツに移しますが、ずっと「左翼的映画」を撮り続けることになります。

 (3)嘘つきヤコブ』 

Jakob der Lügner 

本国公開1974年 日本公開1983

 

後にロビン・ウィリアムズ主演のハリウッド作品 としても公開される原作の、最初の映画化のようです。舞台はポーランドらしく、解放軍ソ連軍の到着を待ちわびるというところが当時の東ドイツ社会らしいといえばそこまでですが。

アカデミー外国語映画賞にノミネートされた唯一のDEFA作品とのことですが、確かによくできた作品でした。ナチ時代の迫害されるユダヤ人を中心に据えた物語といえば、これまで世界各国で多くの作品が出現していますが、旧東ドイツの作品にもこういう映画作品があったのですね。ユダヤ人の多いハリウッドで東ドイツ作品であるにもかかわらずノミネートされたのはわかるような…。

旧西ドイツでアメリカのテレビドラマ『ホロコースト』が放映されたのは1978年。この時期の西ドイツに、こういうユダヤ人のゲットードラマとかあったかなあ? 統一ドイツになってからは、ユダヤ人を扱う作品は増えてきたようにも思われますが…。

ゲットーやナチの収容所を舞台としたドラマは数多くありますが、やはりこの究極の状況が人間ドラマを逆に作りやすくさせるのかもしれません。SF世界の設定などと違い、現実にあったことですから。

 (4)『石の痕跡』

Spur der Steine 

本国公開1966年(ただし、プレミア上映時に検閲で上映禁止、198910月に東ドイツで公開)

 東ドイツのベストセラー小説の映画化で、当時の東ドイツの日常を描いた作品です。東ドイツに興味のある人なら誰でも知っている車・トラバントが走り、共産主義国ならではの反省会やらノルマ達成目標などがあり、国民すべてが公務員のような労働作業者として生活している日常が描かれています。不思議と違和感なくこの「映画上の日常」に慣れることができましたし、映画の世界観には入ってはいけました。

しかし、なんで1966年の東ドイツでこの映画が禁止になったのか?

独語版ウィキペディアを見ると、社会主義国の労働者の道徳を汚し、間違ったイメージを与えると抗議されたとか書いてありますが…確かに、西側では普通の感覚で見られる映画ですが、社会主義国では「存在はすることは公然の秘密だが、映画などの世界においても、建前上は存在してはならない物語である」ということなのでしょうか?

とはいえ、旧東ドイツに決して詳しくない自分としては、あまり深読みはできないとはいえ、当時の東ドイツの人々の日常を「感じ取る」ことはできる映画だと思います。

残る4本については続きます。

 

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リリアン・ハーヴェイ&ヴィリー・フリッチュ共演第4作“Hokuspokus”

このブログの更新を楽しみにしている方(がもしいらっしゃったとしたら)お久しぶりでございます。

諸事情により長期放置しておりましたが、たまたま見かけた動画を載せてみようかと思います。

もう4年も前の記事

昭和初期の日本に(まだ)来なかった「ドイツの夢のカップル」の共演映画

に書きました以下の内容

4作目はHokuspokus(ペテン 1930年 日本未公開)

監督は後のナチ監督としてもしられるグスタフ・ウチツキー。セリフ担当がクルト・ゲッツです。ハーヴェイが殺人容疑で捕まりますが、最後は実は犯罪はなく、単なるペテンだったというお話のようです。英語版(英題:The Temporary Widow)も同時に作られ、フリッチュの演じた役を名優ローレンス・オリヴィエが演じています。こちらも画像やソフトが見当たりません。

さて、上記映画ですが、このほどYou Tube上に動画が現れました。

まだ全部観ていません。画質はいいとはいえませんが、セリフはよく聞こえるようです。

Hokuspokus (1930)

Hokuspokus という作品は、クルト・ゲッツによる舞台作品として1926年に最初のヴァージョンが作られ、1953年には新しいヴァージョンも作られているようです。

1930年にハーヴェイとフリッチュが共演した映画は、最初のヴァージョンを下敷きにしたものでしょう。登場人物名などは変えられているようですが。

また、1953年版を基に、ゲッツ自身が主役を務めた映画も作られています。

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フリッツ・ラングの1933年(3) 後付けの反ナチ映画

最近は家庭の事情もあり、時間がとれず調べごとが進みません。
書こうと思っていることはたくさん頭にあるのですが…。
てなことで、このブログもまた停滞しています。
映画もほとんど観ていません…でしたが。

最近、少し時間が取れたので映画『帰ってきたヒトラー』を観ました。
久々の映画鑑賞ということもあったのかもしれませんが、大感激しました。
何に感動したのか…私の主観や妄想にいろいろ対応してくれることもあったのでしょう。

現代ドイツには実にヒトラーが利用しやすい環境が、(実は)整っている(らしい)ことを…。
(実際にドイツに住んでいるわけでもなく、現代ドイツの空気感は想像でしかなく、私の主観的すぎる思考もあっての考えかもしれませんが…)

ドイツの隠れ右翼(この映画では検察官として登場する)の存在に何か感動しました。
左翼嫌いがドイツにも結構いるのですね。特にインテリ層には。
「歴史認識教育」を学んだフリしてしっかりウヨっている人たちが…。
いや、左翼が良くて右翼が悪いなんてことを言いたいわけではありません。
右にも左にも細かい思想・思考の違いがあり、どちらが正しいなどとは言い切れないものがあるといつも思うからです。

ただ、右翼的な認識は人間の心の奥底に必ず宿っているものです。
第一次大戦後のベルサイユ条約などへの反発とは違いますが、現代ドイツの「自虐史観」には隠れ反発者が相当にいるのではないか?
そう思わされた一面でもありました。

人の話を実によく聞き、意見を吸い上げるヒトラー。政権獲得前は、こういう感じだったのでしょう。
移民、難民問題の不満を巧みにキャッチしています。いや、現代ドイツの問題を全部吸い上げています。
インターネットの効果を最大限利用する…彼は出現する時代を微妙に誤ったのかもしれないとまで思ってしまいました。

この映画での話を現代日本に置き換えて考えようとする“映画感想文”をネット上でチラチラ見ましたが…。私にはバカバカしいとしか思えませんでした。
(熱く語っている方々には失礼とは存じますが、それではこの映画が楽しめません)。

日本のことなど忘れて観る方がむしろスッキリします。
そもそも日本にはヒトラーのような強烈な個性は戦国時代にまで遡らねば存在しないでしょう。
日本の問題と結びつけるのは右にも左にも野暮というものです。

原作での時代は2011年。映画の時代は2014年…。

2016年のドイツにヒトラーが再出現したらどうなるだろうか?
自分の中では映画では描かれていない世界に関してまで妄想が拡がりました。
劇中、AfDも登場していますし、最後にPEGIDAもさらりと“報告”されていますが、
本格的なからみはありません。

主だったものを挙げると…

・映画内では噛み合わないというか、ヒトラーが退屈すら覚えたAfD(ドイツのための選択肢)だが、現在の躍進ぶりをどう捉えるか?
 ・ヒトラーは米大統領候補・トランプをどう評価し、何をけしかけるか?
・PEGIDAの拡大を見たヒトラーは、彼らをどう取り込んでいくか?
・ヒトラーが英国のEU離脱を見たら、どう応用しようとするだろうか?
・プーチンのクリミア占領とその後のウクライナ情勢をどう思うだろうか?
・IS討伐にかこつけて、何をやらかすだろうか?
・旧時代の左翼とは違い、新時代の左翼に対し何を仕掛けるか?

などなど想像しているうちに胸が膨らんできました。
自分もまた、かなり危ないかもしれません。

さっきから“ヒトラー”などと書いていますが、この映画に登場するヒトラーは、
あくまでも原作者や映画製作者が作り上げた“ヒトラー”であって、実際のヒトラーではないことは百も承知です。

とにかく、原作ではヒトラーの一人称で語られるほどヒトラーに入れ込んだ(?)作者にも感激です。
どうもスラブの血が混じっているらしい方のようですが、よく踏み込んでいるというか入れ込んでいるというか…。

ヒトラーが昔の左翼のライバルたちを懐かしんでいる姿や、現代のネオナチに失望しているところも、思想や思考も含めてリアリティがあります。よく研究されたのでしょうね。

それゆえ、作品にたいへんな“説得力”が生まれたのだと思います。

これまでにもヒトラーが登場する映画は、たくさんあり、私も全部ではないにしろかなり観ています。
なかにはいただけないものもありました。安易な批判はいけないとは知っていますが、
わが教え子、ヒトラー』は、私としてはとんでもない茶番劇にしか思えず、観終わった後、実に不機嫌な気分になりました。

『わが教え子、ヒトラー』という映画の何が不満だったのか?

ユダヤ系の母親を持つスイス人が監督を作ったという作品には、
結局、その監督自身の願望やら何やらが含まれた解釈をしています。

ヒトラーを“内”から見ることなく、アンチとして“外”から見ていたのです。
ユダヤ人が実はヒトラーの近くで影響を与えたというのは結局、その監督の主観的願望の世界観です。
実際は非ユダヤ人だった“演説指導者”をユダヤ人に置き換えただけで、世界は変わります。
変わりますが、不自然な物語世界を作ってしまったに過ぎません。

もちろん、ヒトラーの思想や行動に影響を与えたユダヤ人はその生涯の中でいろいろいたでしょう。
ただ、そのユダヤ人が実際のヒトラーの世界観にどれだけ影響したかを踏まえての物語ならともかく、設定上のフィクションが過ぎる映画はぶち壊しでしかありません。

さてさて、半ユダヤ人のカトリック教徒でヒトラーに影響を与えたらしい人物として思い当たるのは、
なんといっても

フリッツ・ラング

です。

モニュメンタルな映像、『ニーベルンゲン』や『メトロポリス』の集団シーンなどにナチへの結びつきを感じたらしい評論家は数多くいます。
実際、ヒトラーもゲッベルスも映画好きでラング作品は数多く観ていたことは確かでしょう。

いまは虚言ということになっていますが、ゲッベルスにドイツに残って映画界の指揮を執ってくれと懇願され、恐怖を感じてパリに脱出したという話は長く信じられてきました。
ただ、ヒトラーやゲッベルスには好みの作者であったことも間違いなさそうです。

ただ、ラングがナチスをどれだけ観察していたかということについては、果たしてどうなのでしょうか?

ラングがドイツを離れるきっかけになった出来事については諸説ありますが、『怪人マブゼ博士』の上映禁止がきっかけのひとつであることは間違いないでしょう。
新時代への絶望を感じたきっかけであることは間違いなさそうです。

この映画は後に再編集され、1943年のアメリカで「ナチ政権直前のドイツで作ったナチの時代の予言映画」として上映されたようです。
ただ、当時のアメリカの観客はどう思ったでしょうか?
すでにドイツと戦争を始めて2年経っている時期でしたし、ナチを思わせる具体的なモニュメントもなく、「反ナチ映画」としては戸惑いもあったのではないでしょうか?
実際「後付け」という評価は多いようです。私もそう思います。

実は、この映画についてあれこれ書くつもりが時間がなく、今回はちょっとお茶濁しになってしまいました。
あんまり最近の映画の話はしないつもりでしたが、やはり『帰ってきたヒトラー』は面白すぎました。

最後にどうでもいいことを…。

それでも、ラング映画『怪人マブゼ博士』が『帰ってきたヒトラー』に影響したかもしれないシーンがひとつありました。

両方の映画を観られた方は、『怪人マブゼ博士』のホーフマイスターと、『帰ってきたヒトラー』のザヴァツキの閉じ込められ方に何か似たものを感じなかったでしょうか?

物語の中の組み込まれ方という点で考えると、違うといえばまったく違うものですが…。

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フリッツ・ラングの1933年(2) ウーファの商魂!?

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フリッツ・ラングの1933年…ということで2回目の話をしようと思いましたが、今回は、ラング本人の話ではなく、ラングが作った映画が1933年にどうなったか? というような話から入ります。

サイレント映画の名作『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリートの死』に音を加えたもの…この交響楽版プリント(?)は、ラングがウーファを離れネロフィルムで活動するようになってから作られたものだとは思われますが…当時のドイツでの上映状況などはどうだったのでしょうか?

さて、上記の広告は日本の映画雑誌『キネマ旬報』1934(昭和9)年10月1日号内にあったものです。「(10月?)24日、帝國劇場封切」とありますが、同誌の記録では、この時期に上映された記録はありません。

また、1934(昭和9)年度、1935(昭和10)年度の、いや、日本で戦前に上映された外国映画の記録には「ジークフリード・交響楽版」が上映されたという記載がどこを探してもありません。

(『ジークフリード(ジークフリート)』のサイレント版が日本で公開されたのは1925(大正14)年3月です。このときは大盛況でした)。

この映画を輸入し、日本の上映網にかけようとしたのは東和商事であることは間違いありません。

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こちらは同誌の9月21日号に載った広告です。

黒騎士』はこの年の12月に、『私と女王様』は翌年(1935)の2月に、『カイロの結婚』(Saison in Kairo)も翌年(1935)3月に公開されたようですが、「藝術作品のクラシック」である『ジークフリード』は結局公開されずじまいに終わってしまったようです。

『會議は踊る』を入手せんとした東和商事の苦労話は以前しました。

ヴァイマール時代はウーファに恐ろしく高い額をふっかけられて『會議は踊る』の輸入をいったんあきらめた同社でしたが、ナチになってからは値切り購入交渉を持ちかけられ他の作品の大量購入と併せて『會議は踊る』を獲得したという話です。

さて、問題の映画、すなわち『ジークフリード交響楽版』も、他に紹介されている映画も、『會議は踊る』とともに半ば強引に売りつけられた映画です。これはラングがフランスで『リリオム』(Liliom)を撮影していた時期…すなわち1933(昭和8)年末にウーファが東和商事に他の映画とともに売りつけ、日本行の船に載った作品ということになります。

この映画の監督者が亡命し、フランスで活動しているからといって、作品はあくまでもウーファの財産であり、サイレント映画に当時の伴奏用音楽を入れ直したフィルムをどこに売ろうと自由です。『會議は踊る』と一緒に半ばオマケのように付けられたということだと思われます。

この時期のウーファが東和商事に売りつけた作品はヴァイマール時代のものもナチになってからのものもあり、完成された映画の制作・制作関係者も出演者も、ドイツからの亡命者も残留者も混ざっている状態でした。ラングが亡命し、フランスに活動拠点を移していたことは、日本の映画雑誌などでもすでに報じられていましたが、そのへんは関係なしと踏んでいたのかもしれません。しかし、サイレント映画の音響付け直し版はこの時期の日本の映画ファンには受けないと判断されたのかどうかわかりませんが、この映画の音響付き再上映は結局なされなかったようです。

ラングはドイツに居た時期に、ウーファと決裂し、ネロフィルムに活動拠点を移しますが、映画の所有権は監督にあるわけではなく、映画会社にあるわけですから、別に不自然な話ではありませんが…この時期(1933年終わり頃]のドイツではラングについてはどのように思われていたのでしょうか? 反感を持たれているのだとしたら、売ることもためらわれたのかもしれませんが…。

いずれにせよ、これから謎多きラングの1933年について、こちらの勝手な推測も含まれることになりますが、語っていきたいと思います。

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フリッツ・ラングの1933年(1)

最近ご無沙汰しております。このブログに少しでも関心のある方には、本当に申し訳なく思っております。
諸事情によりこのブログは半ば止まっております。書きたいことは山ほどありますが…。

このブログを始めたときの私は、フリッツ・ラングの話を中心にあれこれ書き進めようと思っておりました。
ところが、ラングの話はほとんど出すことができませんでした。

この間、あるFB友の方とラングの話になりました。
ラングを扱った最近のドイツ映画の話と、ラングの最初の妻とその死の謎、そして再婚した脚本家とラングの亡命などについてでした。

そこであらためて関心を持ったのが、ラングがドイツを脱出した1933年の行動についてです。

よくラングは「ユダヤ系」だったといわれます。
この話は、要素的にはあることかもしれませんが、1933年当時は切迫する問題ではありませんでした。
ニュールンベルク人種法は、ラングがすでに亡命してしまっていた1935年9月に制定されたものです。
ユダヤ教徒だった彼の母親は、非ユダヤでカトリックだった父親と結婚した際、カトリックに改宗しています。
つまり、後に制定される第三帝国の法律ではラングの定義は「第一級混血者」です。ナチ政権成立初期である1933年あたりの時期は明白なユダヤ教徒ユダヤ人は別として、混血者の中にはまだドイツに留まって活動していた人もかなりいました。

ラング自身もユダヤのアイデンティなどは持っておらず、終生カトリックの教えが自分の根にあると主張していました。

ユダヤを意識した物語なども作ったことはなく、おそらく関心もなかったのでしょう。

1933年の時点では、ナチ・ドイツにおいてもユダヤ人の定義はかなりあやふやでした。いや、最後まであやふやなのですが、この時期は後々の大虐殺までエスカレートすることは考えられなかったはずです。

ラングの場合は母親がユダヤ人だったとはいえ、彼を産む前に改宗していました。

それに、ラングは『メトロポリス』で少し左翼的な教条を上げていたとはいえ、左翼でなかったことは明白です。

ユダヤ系、ユダヤ混血者などのナチ・ドイツからの脱出は1933年からボツボツ始まりましますが、一気という感じでもなかったわけです。

なぜ、ラングは亡命したか?
言い方は適切ではありませんが、「ラングは後の定説ほどユダヤ人という立場を感じたわけでもなかったし、左翼でもなかった」わけです。

昔の定説…本人のインタビューにもあった「ゲッベルスに呼び出されてドイツ映画界をとりまとめて欲しいと頼まれたが、それを拒むために一夜のうちに脱出した」というのは、現在は虚言であったとされています。
ゲッベルスの日記にそのような記述がないからです。

またゲッベルスの研究本である『映画大臣』(フェリクス・メラー著・白水社)の中でも、このラングの発言は慎重に否定されています。

それでも、生前の本人がインタビューでそう言っていたこともあり、この話は長く信じられ続けてきました。

ラングは1933年の時点でフランスに渡ったことは確かなのですが、フランスとドイツを何度か往復していることが、現存するラングのパスポートからも確かめられています。

考えてみれば、ラングの資料本などを見ても、この時期の行動は謎が多いです。

浮気が多かったラング(特にゲルダ・マウルスとの件は有名)に対し、当時の妻であった脚本家テア・フォン・ハルブ(ハルボウ)が復讐も兼ねて何らかの働きかけをしたのかもしれないと妄想してみたりもしますが…。
どうなんでしょうか?

ドイツ語版のウィキペディアでは、これまでの定説がかなりくつがえされる記述が載っています。

妻であった脚本家テア・フォン・ハルブとの離婚は1933年の4月のこと。
ナチ党員になっていた妻との考え方の違いから破綻したといわれていますが、この時期、ラングは俳優ヴィクトル・ヤンゾンらとともにナチの親和芸術家団体であるNSBOの結成に参加しています。
ハルブがナチ党員になったのは1940年のことのようです。ナチのハルブが反ナチのラングと手を切ったというのは、時制的には違っていると見ていいでしょう。

これまで信じられていたことといろいろ違った事実が発見されているようです。

ラングはパリとロンドン、そしてベルリンを何度も往復し、私財をかなり持ち出していたこともわかっています。

ただ、パリで1934年にドイツからの亡命プロデューサーであるエーリヒ・ポマーの下で映画『Liliom(邦題:リリオム)』を監督したことは確かです。
この時期にはドイツからも、ナチからも離れていくことを決意はしていたと思います。

ただ、ナチのドイツから命懸けで脱出したというのは後付けの話であったことも確かなようです。

さて、ラングの亡命は日本ではどのように捉えられていたか…。当時の日本の映画雑誌などでもラング関係の記事は見かけます。
しかし、当時の雑誌を読むと、ラングの亡命にもかかわらず、ラングの古巣ウーファが旧作『ニーベルンゲン』をサウンド付きにして世界各国に売り込んでいたり、ラングは亡命してもネロ社の制作の『怪人マブゼ博士』ドイツ語版はちゃんと日本にやってきて上映されていたり…。
本人は影を潜めていても、ラングの作品は勝手に一人歩きしていたりするのでした。

これからは、しばらくこのあたりの時代のラング関係の話をしていこうかなと。日本語の資料で集めた話が中心になりますが…。

私はドイツ語が得意ではないため、ドイツ語の資料はガツガツ読めません。ドイツ語堪能な方がいらっしゃいましたら、何か面白い情報があればよろしくお願いいたします。

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消失作品の断片

この動画は、エルンスト・ルビッチュがドイツで活動していた時代に撮った短編コメディ映画Die Wohnungsnot(住宅難)に関係することのようです。

1920年夏、オランダのアムステルダムのレンブラント劇場が、上記映画の出演者3人(オシー・オズヴァルダヴィクトル・ヤンゾンマルガ・ケーラー)を映画初日のプレミアショーに招待したときの様子のようです。

ところが招待したにもかかわらず、劇場ではストが行われるという非常事態。それを市民は何か興味深げに眺めているらしい様子です。

しかし、映画本編そのものはすでに消失扱いのようですが…。なお、同映画は日本には来ていないはずです。

映画本編は残っていなくても、こういう妙な関連映像は残っていたりするのですね。

大映画監督エルンスト・ルビッチュのドイツでの映画活動時代(1912年~1923)の出演作品、監督作品は、すべてが残っているわけではありません。

この時代は、大半の映画は捨てられるのが当たり前だったからです。ドイツ国内の上映だけで終わった作品も数多くあるわけですが…。

それでも、ルビッチュのドイツ時代の監督作品は、かなり大正時代の日本に来ています。

とりあえず、並べてみると…

  • 1921(大正10)年公開開始作品

(1)呪の眼(日本公開:2月18日)

Die Augen der  Mumie Ma(ミイラ・マーの両眼:ドイツ本国公開1918年10月3日) 

(2)田舎ロメオとジュリエット(日本公開:2月25日)

Romeo und Julia im Schnee(雪の中のロメオとユリア:ドイツ本国公開1920年3月12日)

(3)出世靴屋(日本公開:11月7日)

Schuhpalast Pinkus(靴パラスト・ピンクス:ドイツ本国公開1916年5月)

(4)花嫁人形(日本公開:11月9日)    動画

Die Puppe(人形:ドイツ本国公開1919年12月5日)

(5)白黒姉妹(日本公開:12月上旬)  動画

Kohlhiesels Töchter(コールヒーゼルの姉妹:ドイツ本国公開1920年3月9日)

  • 1922(大正11)年公開開始作品

(6)男になったら(日本公開:10月13日)  動画 (※戦後の上映会では『男だったら』なども)

Ich möchte kein Mann sein(男なんかになりたくない:ドイツ本国公開1918年10月1日)

(7)パッション(日本公開:11月3日) 動画

Madame DuBarry(デュバリー夫人:ドイツ本国公開1919年9月18日)

(8)舞踏の花形(日本公開:11月22日)

Das Mädel vom Ballet(バレエの乙女:ドイツ本国公開1918年12月6日)

  • 1923(大正12)年公開開始作品

(9)花聟(はなむこ)探し(日本公開:2月25日) 動画 (※戦後の上映では直訳の『牡蠣の王女』)

Die Austernprinzessin(牡蠣の王女:ドイツ本国公開1919年6月26日)

(10)デセプション(日本公開:4月27日) 動画

Anne Boleyn(アン・ブーリン:ドイツ本国公開1920年)

(11)ファラオの戀[恋](日本公開:5月18日)

Das Weib des Pharaos(ファラオの女:ドイツ本国公開1922年)

  • 1924(大正13)年公開開始作品

(12)カルメン(日本公開:8月30日) 動画

Carmen(カルメン:ドイツ本国公開1918年12月20日)

(13)寵姫ズムルン(日本公開:12月5日) 動画

Sumurun(ズムルン:ドイツ本国公開1920年9月1日)

  • 1925(大正14)年公開開始作品

(14)山猫ルシカ(日本公開:1月30日) 動画

Die Bergkatze(山猫:ドイツ公開192年4月14日)

(15)灼熱の情花(日本公開:5月29日)

Die Flamme(炎:ドイツ公開1923年9月11日)

、『ファラオの恋』関係は、ブツ切りの動画が出てきますが、ひとつの流れになっては出てきません。

『舞踏の花形』こと Das Mädel vom Ballett は消失作品扱いです。大正時代の日本にやってきたルビッチュ作品で、唯一形を留めていないようです。スチール写真などは残っているようですが。

しかし、日本の映画図書館には、感想らしき記事が何とか残っています。

名称未設定 1のコピー

無声映画時代ですから、俳優の演技はある程度オーバーゼスチャーになってしまうのは仕方のないことなのでしょうけど…しかし、この時代に生きていた記者の感想です。相当にオーバーでクドイ演技だったのでしょう。何というか…少々限度を超えていたようで。

しかし、いまの人が観ると、案外すべり芸ということで妙な笑いが取れるかもしれません。

さて、大正時代の日本に入って来なかったらしいルビッチュのドイツ時代の作品ですが、他にも観られる作品があります。

Das Mirakel(1912) 奇跡  ※出演のみ

Der Stolz der Firma(1914) 商会の誇り ※主演、監督せず

Als ich tot war(1916) 私が死んだ時 ※現存する最古の監督作品

Das fidele Gefängnis (1917) 陽気な監獄

Meyer aus Berlin (1919)  ベルリンから来たマイヤー

他にも現存作品があるのかもしれませんが、私は知りません。

※データに間違いや抜けがあるようでしたら、コメント欄にでも入れていただけると幸いです。調べ直して訂正させていただきます。

(キネマ旬報の記事は東京国立近代美術館フィルムセンター図書室所蔵資料のコピーです)。

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