1932年9月23日公開。ナチが政権をつかむ4ヶ月ほど前となります。こういう物語の展開で、リリアン・ハーヴェイとヴィリー・フリッチュのコンビ作品のひとつともいえるのでしょう。主題歌はなかなかイイです。
日本には2年遅れの1934(昭和でいえば9年)の12月に公開されました。
ハーヴェイ演ずるジョウジョウが仲間と自然に恵まれた家で見た夢…それはハリウッドでの厳しい女優生活への恐れだったようです。
そして、この映画が上映された頃、ハーヴェイは本当にハリウッドに招かれます。ナチが政権を取るほんの少し前、20世紀フォックスとの契約を結んだハーヴェイは意気揚々とハリウッドに拠点を移し、4本の映画に主演します。
My Lips Betray (邦題:裏切る唇)
My Weakness (邦題:妾の弱点)
I Am Suzanne! (邦題:生けるマリオネット)
Let’s Live Tonight (邦題:今宵も楽しく)
いずれも、「こんな映画もあったの?」というレベルのもの。反響はドイツでもアメリカでも薄かったようです。とにかくハーヴェイのハリウッドでの女優活動は、ドイツ時代に比べると圧倒的に低調な内容だったことは間違いなさそうです。
彼女はLet’s Live Tonightに続く、George White’s Scandals (邦題:乾杯の唄)を降板。代役として出演したアリス・フェイが、これをきっかけにスターになったというのはなんとも…。結局、Let’s Live Tonightがハリウッドでの最後の作品となりました。
Ein blonder Traum(邦題:ブロンドの夢)の原作・脚本は、後にハリウッドの名監督となるビリー・ワイルダーが、ヴァルター・ライシュ(こちらもユダヤ系であり、ナチ政権後は、オーストリアを経由してハリウッドに拠点を移す)と共に作ったもの。後にハリウッドの成功者となったワイルダーは、自伝のなかでリリアンのアメリカでの失敗について、少しばかりあざけるような調子で触れています。
リリアン・ハーヴェイは、Ein blonder Traum(邦題:ブロンドの夢)を監督したパウル・マルティンと現実に愛し合う仲になりました。マルティンはすでに1931年にフラウケ・ラウターバッハという女優と結婚していたにもかかわらず(1938年離婚)。ふたりはパートナーとして一緒にアメリカに渡ったようです。マルティンは20世紀フォックスと契約したにもかかわらず、ほとんど仕事にありつけず、いろいろ苦労したようで。
ともにイギリスを経て、結局、1935年に一緒にドイツ映画界に復帰しました。この後、いろいろと悲惨な話があり、ふたりの仲も破綻したようですが、この続きは後ほど。
(訂正・2012年8月5日)誤記述がありました。指摘いただいたfrancesco様に心より感謝いたします。
※リ リアン・ハーヴェイのアメリカ時代の活躍として、The Only Girlがあがっていましたが、この作品は「私と女王様」Ich und die Kaiserin (1933)の英語版だと思います。ハーヴェイは小中学校をスイスの寄宿生の学校で過ごしたので、英、独、仏を流暢に話すので、トーキー初期の作品は英、 独、仏語版が別撮影で作られていましたが、「私と女王様」のフランス語版はMoi et l’impératrice (1933)なので、わかりやすいのですが英語版はまったく違った題名が付いているようです。 なお、ハーヴェイはアメリカ時代にフォックスで3本撮ったほか、コロムビアでも「今宵も楽しく」Let’s Live Tonight (1935)を撮っています。ご参考まで。
これまでの記述では、アメリカ映画として
The Only Girl (※日本未公開? 物語の内容はIMDhでも不明扱いです)
とありましたが、filmportal.de によるとこの映画は、確かにベルリンで撮影された模様です。監督は「私と女王様」Ich und die Kaiserin (1933)同様、フリードリヒ・ホレンダー。また、プロデューサーはエーリヒ・ポマーになっているので間違いないでしょう。IMDhによると初公開は1934年6月アメリカとなっております。こちらのデータでは、Production Companiesとして、フォックス社とウーファ社 Universum Film (UFA) があがっています。ポマーは亡命してしまいましたが、この時期はまだ独米間のやりとりは続いていたのでしょう。なお、この英語版のフィルムは現存していないようです。