ここで広告されている映画は、フリッツ・ラング監督の(おそらく)日本初上陸作品
Die Spinnen Teil.1 Der Golden See (蜘蛛 第1部 黄金の湖)
で間違いないでしょう。
ここでいうところの“戦後”とは「第一次世界大“戦後”」のことです。
ニューヨークかロンドン? いずれにせよ、どこかの英語圏市場で買い付けられた(らしい)英語版の『The Golden Lake』は、直訳調の『黄金の湖』というタイトルで、浅草のキネマ倶楽部で1921(大正10)年1月15日に封切りされた模様。『マチステ武勇伝』というイタリア映画との併映でした。
Die Spinnen Teil.1 Der Golden See がドイツ本国で初公開されたのは、1919(大正8)年10月3日。ベルリンのRichard-Oswald-Lichtspiele(リヒャルト・オズヴァルト・リヒトシュピーレ)でのこと。だいたい1年4ヶ月遅れで日本に入ってきたわけですから、この時代にしては短いタイムラグです。
上にある広告は、 東京朝日新聞大正10年1月15日朝刊7面 から
同日の読売新聞(東京版)には、『黄金の湖』あらすじ紹介もあります。
東京朝日新聞の同年同月21日には、
京橋の豊玉館で上記の『マチステ武勇伝』に加えてアメリカ映画『悩める胡蝶』とともに3本立て上映される
広告
もあります。
さて、大正10年2月1日号のキネマ旬報の主要映画批評にある
では…。
駄作と評しても敢えて不当ではあるまい…などと酷評されています。
「すべての点において伊米映画に劣っている」と書かれていますが、ここでいう「伊」映画は『マチテス武勇伝』、「米」映画は『悩める胡蝶』のことでおそらく間違いないでしょう。評者は京橋の豊玉館で『黄金の湖』を観たようです。何にしろ、ラングの初来日作品は、何の評価も得られずいつしか消えてしまったということでしょうね。
さて、この映画は現存し、短縮版や全長版に近い形もYou Tubeなどで観ることができます。
この映画は、ドイツ語版のDVDは見当たらないのですが、英語版は存在します。英語版DVDから全編アップしたらしい動画は消去されたようですが。さて英語版のDVDを観た人たちによる、Amazonでの評価はなかなかのようですね。当時の日本では受けなかったかもしれませんが、それなりに面白い内容なのかな? 主演のカール・デ・フォークト(後に突撃隊員にもなったコチコチのナチ俳優)もそれなりに格好いいですし。
続編である Die Spinnen Teil.2 Das Brillantenschiff [ダイヤの船]の方は来日しなかった模様(訂正・1923[大正12]年1月14日に三友館にて封切りされています。キネマ旬報の記録にありました。反響はさほどではなかったようですが、キネマ旬報の評価は好意的なものでした]。
『フリッツ・ラング または伯林・聖林』(明石政紀・著/アルファベータ)によると、『蜘蛛』シリーズは、本来4連作が予定されていたようですが、2作で終わったと書かれています。
ラングはアメリカ大陸を舞台にした『蜘蛛』シリーズと同時期に、19世紀の日本を舞台にした『Harakiri(ハラキリ)』を制作。こちらは当然、日本には来ませんでした。
日本における監督ラングの評価は、『黄金の湖』では芳しいものにはならなかったようですが、1923(大正12)年5月1日電気館封切(日本公開はドイツ本国公開の翌年だった)の『Dr.Mabuse(ドクトル・マブゼ)』で一変することになります。
(『黄金の湖』と『ドクトル・マブゼ』の間に、上述の『ダイヤの船』と松竹洋画部買い付けによる『死滅の谷 (Der müde Tod)』[同年3月20日帝国館にて封切]が来ております。キネマ旬報における『死滅の谷』記事の評価はかなり高いものがありましたが、『ドクトル・マブゼ』ほどの強烈なブームを起こすには至らなかったようです)。
(「東京朝日新聞」1921[=大正10]年1月15日、同月21日の朝刊7面、「読売新聞」(東京版)同年同月15日朝刊6面のコピーおよび掲載については、国立国会図書館利用者サービス部長様の許可をいただいております。朝日新聞は同館開架資料を、読売新聞は同館所蔵のマイクロフィルムをコピー元といたしました。なお、キネマ旬報の記事は東京国立近代美術館フィルムセンター図書室所蔵資料のコピーです)。