昭和9(1934)年リリアン・ハーヴェイ主演映画日本興行記(3)主役が人形操演に負けた佳作『生ける人形』、夢破れたことを広告・宣伝に生かした(?)凡作『ブロンドの夢』

さて、ハーヴェイの1934(昭和9)年日本公開作品紹介は、最後の2作となります。

上映順は前後しますが…まず、この広告をご覧ください。

ブロンドの夢キネマ旬報広告1

結局ハリウッドの大スターになりそくなった これは
 ベルリン むすめのいと朗らかな夢物語……

後述しますが、『ブロンドの夢』そのものの物語の展開とは若干異なります。

さて、1934(昭和9)年のリリアン・ハーヴェイ主演作・日本上映第6弾となったのは、

I am Suzanne! (私はスザンヌ 邦題:生ける人形[まりおねっと] 独題:Ich bin Susanne)

日本公開は9月21日(20日という資料もあります)。

米本国公開は1933年12月25日、独公開は1934年3月15日。

だいたい9ヶ月のタイムラグでやってきたわけですが…どうも日本に持ってきてからの待機期間もそれなりにあったようです。すぐに公開とはいかなかったのは、やはり関係試写などの影響でしょうか? それでも『裏切る唇』日本公開からは約1ヶ月。前作よりは期待できると思われていたのかもしれません。

この映画の話題は、当ブログにおいても「リリアン・ハーヴェイ in Hollywood」「リリアン・ハーヴェイの最初の渡米…当初はドイツでも応援ムードだった…?」 などでもしておりますので、今回は日本での公開事情と反応のみに絞っていきましょう。

まず、日本における同作の広告です。

「スタア」4月10日号表4(裏表紙)広告

「キネマ旬報」掲載広告

「キネマ旬報」9月11日号掲載広告

銀座三越5階の催事場ではフォックス社主催の「操人形展覧会」などを…。事前キャンペーンにはそれなりに力を入れていたようですね。

この映画のあらすじは

「キネマ旬報」9月11日号「外国映画紹介」

そして、この映画への評価は…。

(※2014年2月9日 以前ここには、故・飯田心美氏によるキネマ旬報1935(昭和10)年9月1日号の感想記事のリンクがありましたが、著述者の没年後50年を経過しておらず、関係者様への使用許諾申請もしていないこともあり、リンクを外させていただきます。なお、この関係での内容変更などは順次行っておきます。著作者様の関係者様にはこの場を借りてお詫びさせていただきます)

「東京朝日新聞」9月21日「新映画評」

「読売新聞」9月30日夕刊「新映画評」

(※2014年2月9日 以前ここには、故・清水千代太氏によるキネマ旬報1935(昭和10)年10月21日号の興行価値のリンクがありましたが、著述者の没年後50年を経過しておらず、関係者様への使用許諾申請もしていないこともあり、リンクを外させていただきます。なお、この関係での内容変更などは順次行っておきます。著作者様の関係者様にはこの場を借りてお詫びさせていただきます)

(※2014年2月8日 以前ここには、上野一郎氏による「映画評論」1935(昭和10)年9月号126~127ページ 批評記事のリンクがありましたが、著述者のプロフィールがわからず、関係者様への使用許諾申請もしていないこともあり、リンクを外させていただきます。なお、この関係での内容変更などは順次行っておきます。著作者様および関係者様にはこの場を借りてお詫びさせていただきます)

「国際映画通信」9月下旬号 興信録

これらを読む限りにおいて…

(1)フォックスでのハーヴェイ主演映画としては『妾の弱點』、『裏切る唇』よりは「映画」としては良作である

(2)操り人形の操演が素晴らしく、主演女優ハーヴェイは完全に存在負けしている

ということのようです。『妾の弱點』や『裏切る唇』では周りから少し浮いていたらしいハーヴェイは、『生ける人形』では操り人形を前に逆に沈んでいたようです。

いずれにせよ、フォックスでの3作はリリアン・ハーヴェイの存在を上手く生かしきれなかったことは確かなようです。

すでにこの時点(1934年9月)では、ハーヴェイはフォックスを離れています。まだアメリカにいたか、イギリスに渡っていたか、詳しいことはわかりません。

そして、12月6日になると7本目の日本公開作品が表れます。

Ein Blonder Traum (邦題:ブロンドの夢)

この映画の話題も以前「“ブロンドの夢”…かなわず」でしておりますので、日本での話を中心にしていきましょう。

さて、記事上の広告の文句…。

結局ハリウッドの大スターになりそくなった これは
 ベルリン むすめのいと朗らかな夢物語……

ちなみにこの映画のあらすじは

「キネマ旬報」10月21日号外国映画紹介

「新映画」1934(昭和9)年年末増刊29~30ページ

などになりますから、最後はハリウッドの大スターになる夢は叶ったということです。

それにしてもベルリンを舞台にしているのに、なぜテンペルホーフのスターではなくハリウッドのスターを夢見るのか…。何か日本のプロ野球には目もくれず大リーグを夢見る日本のアマチュア選手にも通じるようなものがあります。いや、ハーヴェイもフリッチュもフォルストも実際にドイツ映画界の大スターだったわけですから、少し寂しいものがあります。ドイツ映画界はアメリカのマイナー組織とでも見なされていたのか…しかし、ドイツ映画の黄金時代だったはずのヴァイマール時代終盤期であっても、米独の優劣関係は厳然としていた証でもあるのでしょう。

『ブロンドの夢』ことEin Blonder Traum がドイツで公開されたのは1932年の9月23日。ハーヴェイのアメリカ行きはすでに決まっていたと思われる時期です。

この映画も東和商事の配給です。1933年末にウーファで安く買い付けた映画のひとつでしょう。この映画は結局、昭和9(1934)年の日本においてはハーヴェイのアメリカ・フォックス三部作『妾の弱點』、『裏切る唇』、『生ける人形』の後に公開されることになりました。

日本の映画ファンの間では十分すぎるほど「ドイツのハーヴェイはいいけど、アメリカのハーヴェイはダメ」という印象は定着していました。

結局ハリウッドの大スターになりそくなった

という現実を生かし、「ドイツ製作のハーヴェイ映画なんだから観に来てくださいね」という方向に持って行こうという広告文でしょう。

さて、日本における感想などは…。

「東京朝日新聞」12月5日朝刊5面 映画の印象

「読売新聞」12月10日10面

(※2014年2月9日 以前ここには、故・飯島正氏によるキネマ旬報1936(昭和11)年新春特別号の興行価値のリンクがありましたが、著述者の没年後50年を経過しておらず、関係者様への使用許諾申請もしていないこともあり、リンクを外させていただきます。なお、この関係での内容変更などは順次行っておきます。著作者様の関係者様にはこの場を借りてお詫びさせていただきます)

「国際映画通信」12月下旬号 興信録

などなど…「アメリカで味噌をつけてしまったハーヴェイのドイツ時代の作品で、ドイツ作品としては決して上位ではないが、アメリカ作品のどれよりも良い」という、広告の狙い通りの感想になっています。

この映画を観た当時の日本の観客の感想はどういうものだったのでしょうか?

「人の不幸は蜜の味」という言葉の通り、ちょっとしたあざ笑うような感情も日本のファンの間に芽生えていたのかもしれません。「やっぱりハリウッドじゃリリアン・ハーヴェイも通用しねぇよなぁ」などと訳知り顔で語る者も多くいたに違いありません。ハリウッドでの大成功を夢見るヨーロッパ大女優の(後から考えれば)浅はかな夢物語…。ちょっとした年末の話題にはなったかもしれません。

歌はとってもいいのですが…。しかし、『會議は踊る』の主題歌ほどは(日本では)流行らなかったでしょう。

(「読売新聞」「東京朝日新聞」の コピーおよび掲載につい ては、国立国会図書館利用者サービス部長様の許可をいただいております。なお、読売新聞は同館所蔵のマイクロフィルムを、東京朝日新聞は縮刷版をコピー元とい たしました。なお、「新映画」、「キネマ旬報」、「国際映画新聞」、「映画評論」、「スタア」などの記事および広告は東京国立近代美術館フィルムセンター図書室所蔵資料のコピーです)。

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(キネマ旬報掲載広告)
ブロンドの夢朝日12月6日広告(東京朝日新聞12月6日夕刊7面広告)

煩想亭覗庵 について

ドイツ語が不自由なドイツ映画ファン。知識・見解にかなりの偏りあり。いろいろ教えてくださいませ。
カテゴリー: ナチ時代, リリアン・ハーヴェイ, ヴァイマール時代, 女優 パーマリンク

昭和9(1934)年リリアン・ハーヴェイ主演映画日本興行記(3)主役が人形操演に負けた佳作『生ける人形』、夢破れたことを広告・宣伝に生かした(?)凡作『ブロンドの夢』 への2件のフィードバック

  1. Fair より:

    『ブロンドの夢』主題歌は当時淡谷のり子もカバーしていました。

    • 煩想亭覗庵 より:

      ありがとうございます。「淡谷のり子 ブロンドの夢」で検索すると早速中国(?)のサイトが出てきてカバー版を試聴することができました。ドイツでも戦後のカバーがいろいろあるようですね。私はニナ・ハーゲン盤が印象強いです。

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