(おそらく)日本初登場のルビッチュ映画『呪の眼』

おそらく…日本で初めて公開されたエルンスト・ルビッチュの監督作品は、Die Augen der Mumie Mâ(ミイラ・マーの眼 邦題:呪の眼)です。

1921(大正10)年2月18日(金)、当時の東京“市”内では日活の洋画専門館として知られていた赤坂溜池の葵館で封切りされ、ジョン・バリモア主演のアメリカ映画『狂へる悪魔』と併映。弁士は南田若蘭と山形天洋。24日までで延長公開はなかったようです。その後どこかでリバイバルされていたのかどうかはわかりません。

(24日公開開始としてある資料もありますが、18日に封切りされたことは間違いなさそうです)

当時の新聞にも記事や広告が掲載されています。

東京朝日新聞大正10年2月17日夕刊3面

17日の記事 (転写テキスト

東京朝日新聞同年同月19日夕刊3面

19日の記事

呪の眼広告

東京朝日新聞同年同月22日夕刊3面

22日の記事

呪の眼広告

記事・広告いずれもルビッチュの名前が出ておらず、ポーラ・ネグリに関する話題ばかり…。北欧女優と書いてあったり、ポリシュ(ポーランド)女優と書いてあったり…。ポーランド生まれというのは正解なのですが…。

監督ルビッチュの存在を日本の新聞の文芸欄記者が認識するようになるのは、もう少し後になってからのようです。

(「東京朝日新聞」1921[=大正10]年2月17日、19日、22日の夕刊3面のコピーおよび掲載については、国立国会図書館利用者サービス部長様の許可をいただいております)

この映画については、他にも資料が

キネマ旬報大正10年3月11日記事

キネマ旬報大正10年1月21日記事(日活輸入のドイツ映画)

(いずれも東京国立近代美術館フィルムセンター図書室所蔵資料のコピーです)

煩想亭覗庵 について

ドイツ語が不自由なドイツ映画ファン。知識・見解にかなりの偏りあり。いろいろ教えてくださいませ。
カテゴリー: エルンスト・ルビッチュ, ポーラ・ネグリ, ヴァイマール時代, 監督 パーマリンク

コメントを残す