獨逸映畫界(ドイツえいがかい)の珍品 名優ロツテ・ナウマン孃の妙技は之れ(五卷)
ロメオとジュリエット
この広告は…
に載っていたものです。
東京・浅草の映画館・帝國館で、この25日から『青春』、『第一復仇の血』とともに上映されたドイツ映画の珍品『ロメオとジュリエット』(…?)。
この映画を観た東京朝日新聞の文芸記者は、翌月(3月)2日(水)の夕刊3面に怒りの記事を載せています。どうやら25日の広告の中の「獨逸映畫の珍品」という一行を見逃してしまったようで…。
一応、語句説明をさせていただきますと
沙翁劇(さおうげき)…シェークスピア劇のこと
ロッテ・ナウマン…ロッテ・ノイマン(Lotte Neumann)後に脚本家としても活躍した女優。
何處までもーいとやせぬ → どこまでも節(1:54に合わせてみましょう。“どこいとやせぬ”“カマヤセヌ節”などともよばれる大正3年の日本のヒット曲です)。
Romeo and Tulia in Snow →TuliaはJulia の間違い
秀水 → 津田秀水 3月2日の別記事(津田秀水関連)
と、いうことで…この『ロメオとジュリエット』とは、エルンスト・ルビッチュの監督作品 Romeo und Julia im Schnee (雪のロメオとユリア)のことです。日活が輸入した『呪の眼』とは違って、こちらの映画は松竹洋画部によって買い付けられたようです。入手ルートは別だと思われますが、同じぐらいの時期に日本に来ていたのではないでしょうか。とりあえず、『呪の眼』から7日だけ遅れて公開されることになった、ルビッチュ映画の日本上陸第2弾というところ。
大正10(1921)年当時の浅草は、まだ関東大震災の前。「浅草十二階」こと浅草凌雲閣なども存在していたころです。当時の浅草は東京文化の中心のような場所。ここでルビッチュ映画が「かっぽれ」、「どこまでも節」などとともに、旧劇調の熱弁で解説されていたなんて…たいへん素敵なことのようにも思えるのですが…。この映画はフィルムも残っていますので、どこぞの(現在活動中の)弁士の方にでも、当時の演奏と活弁の様子を再現していただきたいような…。
(2015年1月8日差し替え)
さて、なぜ「ロメオとユリア」が「ロメオとジュリエット」になったのかというと…。
ドイツ語圏では一般的にシェークスピアの Romeo and Juliet (ロメオ アンド ジュリエット)は、 Romeo und Julia (ロメオ ウント ユリア)というタイトルで上演されます。
Romeo und Julia im Schnee (雪のロメオとユリア)こと『田舎ロメオとジュリエット』は、ヴェローナの悲劇をドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトの村に置き換えた、一種の茶番喜劇です。東京朝日新聞では激怒の酷評を受けた同作品ですが、
においては、好意的な記事が載っています。しかし同誌も「これを単に『ロメオとジュリエット』として広告した狡猾さは憎むべきである」とチクリ。でも明治時代あたりまでよくあった見世物の騙しみたいで、それはそれでユーモアをもって観てもよかったような。
キネマ旬報記事のデータでは、監督が「ハンス・ダインゼン」になっていますが…(ラテン・アルファベット表記はHans Dynesen)これは誰でしょうか? この当時活動していたデンマーク俳優・Hans Dynesenの名前が紛れ込んでしまったのでしょうか? また、ロメオ役が「ハンス・メルクウィッツ」になっていますが、これは「グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム」の間違い。Hans Merkwitzという俳優は、確かにこの時期活動していたようですが…? Nils Crisandelというのは誰なのでしょう?
さて、『田舎ロメオとジュリエット』をけなしまくった大正10年3月2日、東京朝日新聞夕刊でしたが、その記事の左側に、実に興味深い記事があります。
『田舎ロメオとジュリエット』の監督が、『デユ・バリイ(邦題:パッション)』や『アンヌ・ボレイン(邦題:デセプション)』、『スムラン(邦題:寵姫ズムルン)』などの監督と同一とは知らなかった模様。
さて、日本におけるドイツ監督ルビッチュは、『呪の眼』、『田舎ロメオとジュリエット』ではほとんど評価されなかったわけですが、同じ年に入ってきた映画『花嫁人形』によって一変することになります。
この話はまた後ほど。
(「東京朝日新聞」1921[=大正10]年2月25日、3月2日の夕刊3面のコピーおよび掲載については、国立国会図書館利用者サービス部長様の許可をいただいております。なお、キネマ旬報の記事は東京国立近代美術館フィルムセンター図書室所蔵資料のコピーです)。